2021年3月6日土曜日

 コロナ禍の実体

 祈りのなかで日々を送っています。

あっという間に今年も3月を迎えています。今は、四旬節(レント)受難のキリストと一つとなってあの救いの頂点であったカルバリー山上を前に十字架に向かって歩み始めています。

コロナという言葉が、世界を覆う中、人間の免疫力の強さもみえてきました。

ある体験談のなかで、感染しないということが一番ではあるが、コロナに打ち勝つ力は、神が人間に与えれた免疫力によるものだというのです。もちろん、疾患をもっている人、体力的に弱っている人をこの病状から回復させることは難しいようで、エクモなどの機械によって救い出される方々あります。しかし感染したからと言って特効薬をいただけるわけではなく、注射を打っていただくという事でもなく、ただただ免疫の力を信じて回復を待つのみというのが現状のようです。

無症状の方、高熱で倦怠感などであえぐ方、しかし、無症状から時を経ずして命の危険にさらさられる人もあり、味覚障害症状が先に、後に出てくる方、様々な症状があること、また多くの方々が回復後も、後遺症がずっと続き体調不良の日々を過ごさねばならないということもあるようです。

苦しみのない人生はありませんが、そのなかで自分に届く十字架の苦しみを担うということには、限界があるように思えますが、イエスとともなれば、それは軽く、負いやすいものとなることをごぞんじでしょうか。

フットプリント(あしあと)という詩のなかで、自分が最も十字架の苦しみに耐えかねていたとき、そこにあるのは一人分の足跡であったというのです。それまでは、人生の伴侶であるイエスが共に寄り添って歩いていてくれたのに、あのときは、私一人が負わなければならなかった、なぜあなたはわたしをみ捨ててそこにおられなかったのですかと、嘆くことが描かれていますが。イエスの解答は、「わたしの子よ、じつは、その足跡はわたしの足跡だ。あの時、私はあなたを背負っていた」といわれるのです。

そう、わたしの人生を振り返ってみてもです。辛かったなあと思う日もありました。けれどいつも、あとで主イエスが背負ってくださっておられたことに気づいたのです。

だれしもが、とても厳しい時代を迎えていると思います。けれども、雲間に太陽がいつも輝いていることを思い出してください。光は暗闇のなかで輝いているのです。イエスのあついまなざしにふれて、希望の光をあび、命の回復を体験しましょう。

主なる神は言われる わたしは主であってあなたを癒すものである。

主の御名を呼び求める者は だれでも救われるのです。 神は愛なり